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TEL.052-681-1026

〒456-0021 名古屋市熱田区夜寒町5番1号
mail:hataya-e@nagoya-c.ed.jp

現状

校 長 : 駒木 貴美子
学級数 : 16 
児童数 : 398人 (R6.4.19現在)

アクセス

地下鉄「西高蔵駅」 西へ徒歩4分
FAX : 052−681−6497

ふるさと旗屋

  大昔から、ここ旗屋小学校のある場所は、伊勢湾に突き出した陸地でした。今の名古屋城のある辺りからに熱田神宮のある所まで海に突き出していました。ここは熱田台地と呼ばれています。周りを海に囲まれていたので、大昔の人は、海の貝・魚を捕り、野原や森で動物や草木の実をとったりして暮らしていました。人々が集まって生活していた様子や多くの住居や墓が作られていたことが、遺跡からわかります。この遺跡は高蔵遺跡と呼ばれ、旧石器・縄文時代の家の跡や生活に使われた道具が土の下から発見されました。
 そののち、弥生時代になると家の集まりはどんどん大きくなり、栄え、周りを海に囲まれた地形を生かし、遠い地方との交流もあったようです。めずらしい中国で作られた鏡が土の下から見つかったことからもわかります。人々の住んでいた集落の周りには穴が掘り巡らされ、守りを固めていました。食べた貝のごみである貝殻を捨てた集まりの貝塚も多く見つかっています。人々の中からは力のあるリーダーが出てきて、リーダーが亡くなると土や石を山のように盛った大きな墓が作られました。これらの墓は古墳と呼ばれ、学区の中にもたくさんあります。旗屋小学校の中にも古墳が見つかり、大きなものでは断夫山古墳や白鳥古墳が今でも見られます。このように、大昔から人々がたくさん集まって住んでいたところなので、神様を祭る神社「熱田神宮」もできました。この神社にお祈りに来る人々、海から魚や貝をとる人々、それを買いに来る人々で、大変なにぎわいでした。
 さむらいの時代になり、徳川家康が名古屋城を作ったのち、町を広げるための材木などを海から城まで運ぶために「堀川」を掘りました。それ以来、城下町・門前町としてますます栄え、「堀川」があることで各地から色々な物が集まり、大きな市場にもなりました。現在白鳥公園や国際会議場のあるところには日本各地から材木が集められていました。 また、江戸(今の東京)と京を結ぶ道も整えられ、熱田の宮から三重県の桑名まで海を渡る船が行き来したので、交通の要所となり宿屋も多くできたそうです。
 熱田台地の周りの海は浅い海で、海の水をせき止めて陸にし、その多くを田にしました。それまで漁業を営んできた熱田の人々は米作りをする農家も増えてきました。名古屋市ができたころ、旗屋小学校の辺りは愛知郡熱田町でしたが、その後名古屋市に南区として合わさりました。さらに海を田畑に換えていって名古屋市が南の方に広がった頃、南区から分かれて熱田区になりました。

沿革

 日本に学校のきまりができた頃、住吉神社、本遠寺(ほんえいじ)、南部新左衛門の3つの寺子屋が、義校となりました。その後、名前がかわり第43番住吉小学校、白鳥小学校、千寵(ちがま)小学校となりました。住吉小学校は今の高蔵小学校ですが、まだ旗屋学区には学校がなかったので、旗屋の子どもたちは住吉小学校へ通いました。このころ、あたりは全体の20%が人家で、80%が田や畑でしたが、旗屋学区にも家が建てられ、人口が急に増えました。住吉小学校も、その後学校の名前がかわり、高蔵寺尋常小学校となりましたが、子どもの数が増えて困り、新しく学校を建てる動きがおこりました。
 1909年(明治42年)に名古屋市第九高等小学校の教室を利用し、名古屋市旗屋尋常小学校ができました。まだ校舎ができていなかったので第9高等小学校の教室で勉強しました。3年後の1912年(明治45年5月5日)に立派な新しい校舎ができました。校舎は、四方を塀で囲まれ、西には、武家屋敷風の立派な門がつくられ、今は入学式・卒業式の日のみに開かれ、新入生を迎えたり卒業生を送り出す門として、立派にその役割を果たしています。当時はとても貴重だった「山葉」のアップライトピアノを学区の方にいただきました。3年後には名古屋市内最初となる雨天体操場(体育館)を学区教育会(今のPTA)に建てていただきました。
 1929年(昭和4年)には開校20周年迎え、記念して今の、校歌が作られグランドピアノが贈られました。その3年後、名古屋市で初めての味噌汁給食が、さらに次の年には共同弁当給食が始められました。戦争が始まり学校の名前が旗屋国民学校と名前を変えていましたが、戦争が終わって、1947年(昭和22年)に「名古屋市立旗屋小学校」という今の名前になりました。

校章の由来

 「はたや」は、幡綾(はたあや)、綾機(あやはた)とも書き、そのむかし熱田神宮に仕えた縫工女(きぬぬいめ)が、初めて綾錦(あやにしき)を織った「ハタ屋」のあった跡であるといわれています。ハタの文字は「幡」と書かれ、それが「籏」にかわり、今のように「旗」になりました。 その町名にちなんで、旗屋小学校という名になり、校章には図案化された「旗」と「屋」の文字が組み合わされています。